2.帯広ロータリークラブの再開
戦後の経済復興、社会の安定と共にいち早く日本のロータリーは、国際復帰を目指す気運がみなぎり、昭和24年3月には国際ロータリー中央アジア駐在員のジョージ・ミーンズの努力により東京ロータリークラブが国際ロータリーに復帰し、続いて各地のロータリークラブの復帰が承認されている。
帯広においては、いまだ戦後の復興もままならぬ混乱の社会環境のもとにあったが、昭和25年早春より、帯広クラブの再開が取り沙汰されるに至っている。たまたま、この頃札幌クラブから当時の帯広畜産大学学長の宮脇冨に対し、帯広クラブ再開勧誘の連絡があり、これを機会に急速に準備が進み、宮脇冨の肝いりでその年12月に平原荘ホテルにて発起人会が開かれ、12月19日札幌クラブから伊藤豊次を迎え、チャーターメンバー33名にて創立総会が開かれた。
帯広ロータリークラブの戦後の極めて早い復活は、当時の帯広畜産大学学長宮脇冨の力に拠るところ多大で、このことは帯広クラブとして最大の幸運であったというべきであろう。
ロータリークラブは華々しく奉仕の灯はともされロータリー活動を開始し今日に至っている。例会場は、再開当時は藤丸百貨店3階に始まり、其の後平原荘ホテル、宮本食堂、労働会館、そして1953年からは日本勧業銀行帯広支店と移り変わり、1968年以来帯広ステーションホテルを会場としている。