帯広ロータリークラブ 小史
1.誕生から戦時中(1935-50)
1905年、ロータリー創立後の15年にして、日本最初の東京ロータリークラブが設立され、その8年後の1928年には日本全土が国際ロータリー第70地区に指定されている。3代目ガバナー村田省蔵(旧大阪商船社長)のクラブ拡大路線に従い、1933年創立の札幌ロータリークラブをスポンサークラブとして、1935年帯広ロータリークラブは誕生している。以来、地域に根を下し幾多の奉仕活動のもと歴史を重ね、ここに60年の歳月を経るものである。
創立時の昭和10年は帯広市人口未だ3万2千人余の地方小都市であったが、当時の帯広市長(昭和8年市政施行)渡部守治を初代会長に、商工会議所会頭宮本富治郎、藤本長蔵(初代)佐藤亀次郎、杉田末吉等の発起人のもと、チャーターメンバー19名にて、3月15日帯広市公会堂にて創立総会を開催し、続いて5月31日付けにて国際ロータリーの認証No.3820を得て、日本で第16順位のロータリークラブとして発足している。
昭和12年の満州における戦火に端を発した世情は、日毎に暗雲を漂わせ、やがて軍閥の勃興と共に、軍の反ロータリー政策が極端に強化され露骨となり、ロータリーはアメリカのスパイ活動の如く偏見をもってみられ、ロータリーへの圧迫は日増しに激化していった。斯様な世相の中で、日本のロータリーは遂に国際ロータリーを脱退すると共に、全国のロータリークラブは漸次解散することとなった。帯広ロータリークラブでは、1940年9月、時のクラブ会長、窪田利長は解散を宣言したのであった。
然し、ロータリーの精神は変わることなく形を変えて引き継がれ、「木曜会」として存続し、以後20回の例会を開催している。その後も戦時体制は益々激しくなり、やがて木曜会も開催不可能となり、遂に1941年1月30日の例会を最後に、以降例会中止を申し合わせ、ここに創立以来通算292回の例会をもって帯広クラブは完全に休止している。その間の記録として昭和13年9月の171回例会から昭和15年の解散に至までの活動については、現在「帯広ロータリー倶楽部の諸記録」という帳面が唯一の資料とされている。
発足当時の2年間程は、クラブ活動といってもまだ明確なものはなく、会長の考えにまかされており、奉仕活動等には何等見るべきものはなかった。会費は1ヶ月5円、家族会は3円、食事代1円、国際ロータリーの分担金6円40銭、香典は10円という記録がみられる。昭和13年~14年になって初めて会員詮衡(選考?)委員会、出席委員会、プログラム委員会の名がみられる。会員の例会出席状況も低調で70%前後であった。当時の活動で僅かに目につくのは、帯広クラブから81円拠出し、当時の北海道のクラブが合同して旭川陸軍病院に映写機を献納しており、また傷病兵の慰問、銃後後援会への寄付等がある。昭和14年には当時の14金ロータリーバッジを造幣局で現金に換え国防献金している。注目すべきは、14年7月に当時の十勝公会堂で第5回北海道ロータリー倶楽部連合会が開催され、62名が集まり第8代ガバナー森村市左衛門、小林雅一幹事(共に東京クラブ)が出席していることである。
昭和15年2月22日例会はロータリー遵奉週間として、札幌クラブから小熊倉次郎副会長が来帯し意義ある例会が開催され、特別週間行事として、帯広ロータリー倶楽部家族懇談会の開催、郷土出征軍人に地元新聞の送付、戦傷病者の市内病院療養の慰問などが行われている。4月には国際ロータリー第70地区監督代理として、この10年後の昭和25年帯広クラブ戦後再開チャーターメンバーとして活躍した宮脇冨が、森村市左衛門ガバナーの代理として訪問しており注目される。ついで5月には横浜市で日満ロータリー倶楽部連合大会が開催され、当時の中島武市、有田重太郎の両名が出席している。この時、前年度出席率優勝クラブの野付牛ロータリー倶楽部の優勝旗返還の記録も見られる。
この頃になると別記のとおり、ロータリーという国際団体に対する世相の眼は厳しくなり、軍部からは、秘密結社フリーメーソンに関係ある如くみられ、ロータリーをとしまく環境は風雲急を告げる暗黒の時代に入った。8月になると事態は益々深刻になり、ロータリーの名称変更や機構改革が叫ばれ、遂に昭和14年9月には、日満ロータリーは解散し、日本のロータリーは国際ロータリーを脱退するに至っている。当時のクラブ数48(内地37外地11)会員2142名という記録がある。
帯広クラブもこれに従い、国際ロータリー脱退を決意し、昭和25年9月5日、当時の例会場の藤丸百貨店に会員15名出席しクラブ解散を決意している。