2011-2012年度会長報告
第3295例会 平成24年4月18日 会長報告 加藤維利会長
2012 年 4 月 18 日
1905年2月23日のシカゴRCクラブの1回目の例会については、いろいろな場面で話されています。1回目の会合では「一人一業種で親睦を深める会を作る」という設立の主旨が話されました。1905年3月9日の2回目の会合は、ポールハリスの事務所で行われました。この時には最初の4人に加えて、ハリスの勧誘により印刷業のハリー・ラグルス、ラグルスの紹介で不動産業のウイリアム・ジェンセン、楽器製造業のアルバート・ホワイトが参加しました。ラグルスは例会での合唱をとりいれた人で、シカゴクラブの第4代会長でした。ホワイトは第2代会長です。この会合では事業の経営者、共同経営者、会社役員でなければ会員になれないということが決められました。
3回目の会合は3月23日にシルベスター・シールの事務所の石炭置き場で開催されました。この会合ではシールが初代会長に、ショーレーが記録担当幹事に、ジェンセンが連絡担当幹事に、ラグルスを会計にと割り当てられました。
また、この会合では新クラブの名称の検討が行われました。例えば「ブースタークラブ」、訳すと推進者クラブです。この頃アメリカの流行語でどこの町や大学にもブースタ組織がありました。しかし誰も賛成する人はいませんでした。ラウンド・テーブル・クラブ、コンスピレーターズ・クラブ(共謀者)、ザ・シカゴ・フェローシップ、ザ・ブルーボーイズ、シカゴ・サークル、その他にも10以上の名称が検討されました。その中でもラウンド・テーブル・クラブは真剣に議論されましたが、最終的には採用されませんでした。最後に提案されたのが「ロータリー・クラブ」と言われています。1回目、2回目、3回目とお互いの事務所で、持ち回りで会合を開いていることがその理由でした。
「THE FIRST ROTARIAN」という本の中には、この名前を思いついたのはハリスだと書いてありますが、実は残念なことに、記録担当幹事のショーレーはそのことを記録していませんでした。そのため誰なのかは今でも分からないままになっています。
6回目までは各事務所を持ち回りで会合を開いていたが、7回目からはシカゴのいろいろな地区のホテルやレストランで行われることになりました。この時から例会で食事をする習慣が始まりました。
実は6回目の会合はハリー・ラグルスの印刷工場で行われました。3回目から参加している、チャールズ・A・ニュートンが遅刻をしてきたのでみんなが文句を言ったところ、「忙しくて、朝から何も食べておらず、お腹がすいたので食事をとってきたのだ」と話しました。それではということで、例会での食事が始まりました。
このようにして、ごく初期の頃から出来上がった決まり事は、今日の我々のロータリークラブの大原則や一般的になっているものがたくさんあります。
本日は1905年2月23日の次の例会から7回目の例会までをかいつまんで話しました。これらのことを記憶するのが必要なのかは別にして、たった7回までの間にこれだけの重要なことがあったことをお伝えして会長報告とさせていただきます。