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2011-2012年度会長報告

第3290例会 平成24年3月14日 会長報告 加藤維利会長

2012 年 3 月 27 日

加藤維利会長日本のロータリーの歴史の中で帯広ロータリークラブが生まれる前後の背景について振り返ってみたいと思います。皆さんご存知のように1920年に福島喜三次氏と米山梅吉氏により東京ロータリークラブが生まれました。1922年には別ルートのRI直轄で大阪ロータリークラブが誕生しました。大阪RCはスポンサーとなって、1924年に日本で3番目のクラブとして神戸RC を創立させました。スポンサーで遅れを取った東京ロータリークラブは、名古屋、京都、横浜とクラブを創立させました。1928年には日本、満州を合わせて70地区となり、初代ガバナーに米山梅吉氏が就任しました。二代目は伊坂孝氏で、横浜ロータリークラブに所属し、ガバナー月信の第1号を発行しました。1931~33年までの就任中に広島、札幌、福岡と3つのロータリークラブを設立し、日本
には9つのロータリークラブができました。
帯広ロータリークラブの誕生に関与しているガバナーに、第3代目として就任した村田省蔵氏がいます。元大阪RCの会長であ
り、大阪商船の社長でありました。ガバナーの任期は1933~35年までですが、今日のロータリーの日本化とロータリークラブの拡大に大きな功績を残しています。国粋主義的なロータリーを考えた村田ガバナーは、当時の大阪RC所属の土屋大夢というジャーナリストの考える、二宮尊徳思想を通してロータリーの奉仕哲学を解釈する考えが、日本のロータリアンに合っていることをもとに、アメリカのロータリーを脱却した、ロータリーの日本化を考えました。この考えは少なからず、現在のロータリーの考えにも
影響を残しているように思います。
次に質より量という考えのもと、1934年の名古屋で開催された地区大会において、「人口5,000人以上の中小都市にロータリーを設立しよう」というスローガンを揚げ、1933年の小樽を皮切りに、34年には順番に岡山、門司、今治、函館、旭川RCと設立し、35年には札幌RCをスポンサーにして、明日の3月15日に帯広RCが創立しました。全国16番目のクラブでした。4月には金沢、岐阜、徳島と続き6月に20番目のクラブとして、静岡RCが設立されています。さらに、村田ガバナーは就任中の1935年に、それまで英語で歌っていたロータリーソングを日本語のロータリーソングにしようと提案しました。全国のロータリアンに公募をし、京都における地区大会で発表しました。1位は「旅は道連れ、世は情け、情けは人のためならず」、2位は「奉仕の理想」、3位は「平和を人の世に植え 親愛の心はぐくむ」ですが、4位に「われらの生業」が入っています。当選者には賞品が渡されています。
このころの日本は、1931年に起きた満州事変をきっかけとして、戦争が広がって行き、1933年3月には国際連盟を脱退しています。10月にはドイツも脱退します。アメリカは大統領がルーズベルトに代わりニューディール政策をとり始めました。軍部と右翼による思想の抑制が強まる中、ロータリーはフリーメイソンの外郭団体と言われたり、左翼と関係があると言われたり、ロータリーに対する風当たりが強くなり始めました。
1940年9月5日の第272回例会において、帯広RCは解散され、木曜会として会合を続けましたが、1941年1月23日、通算292回の会合をもって解散となりました。
再び帯広RCの声を聞くには1950年12月9日の再開の創立総会まで待たねばなりませんでした。
そのような中、1935年に開催された太平洋地域大会にポール・ハリス夫妻が参加し、日本に立ち寄ることになりました。夫妻が乗った船は荒天のため3日遅れの2月9日に横浜に入港しました。慌ただしい日程の中、午餐会、晩餐会と出席し、その夜には乗船して神戸に向かいました。東京での食事のメニューは現在も残っています。
本日は創立記念例会ということで、1935年前後の10年程度についての話をしまして、会長報告とさせていただきます。